平成26年9月 5日(金)晴れ
今日は温かい日。
今日は荒まさに行った。武田と高村とで行った。
酒を飲んで柔軟体操をしたら。膝を伸ばして足を揃えて体を前屈させて手がつま先に付いた。これは喜ばしいことだ。もともと私は体が固いのだ。小学生のときから固いのだ。
愚生の作った、八重山古典民謡の調べ(カラー版) を二人にお見せしたところ、非常に好評で、買いたい、と真顔で言われた。まあ、できたら、あげるつもりだ。あげても速攻、雑紙ゴミ行き、という人は一番困る。
全部で500部作るつもりだ。印刷代の関係からこの辺が一番お得感がある。
知り合い、や、自分が宴会で唄う時にちょっと配ると良いかも。まあ、自分が唄うのは知り合いの前だけだし。でも速攻、ゴミ箱は辛いな
唄の歌詞とその唄の説明を書いてみた。
色々な本やホームページを参考にして書いてみた。
でも、結局これって、あれだべ。出所は、喜舎場永珣先生だべ。
あらまさ の タコ刺し
喜舎場永珣 きしゃば-えいじゅん
明治18年7月15日生まれ。出身地沖縄県で小学校教師をつとめる。明治39年から八重山諸島の歴史,民俗,古謡の研究に専心。伊波普猷(いは-ふゆう),柳田国男と親交をもつ。昭和46年「八重山古謡」で柳田国男賞。昭和47年4月2日死去。86歳。沖縄県師範卒。著作はほかに「八重山民俗誌」など。
まあ、沖縄もいろいろ辛い歴史があるわけさ。
戦争でヒドい目にあって、そのあとはアメリカ領に。
アメリカなんて、沖縄の人の暮らしのことなど、何も考えなかったのかもしれない。一番大事なのは、支配されると支配者の価値観が押し付けられてしまう。当時のアメリカが八重山古典民謡に関心があったか、と言えばなかったのであろう。
その環境下におかれると人間というものはそれに従ってしまう、と言うのが、歴史的に一般に見られることである。いろいろな手記を読んでみると当時の八重山の人たちも自分達の唄にさほど価値を見いだしてはいなかったようだ。
仕事しながら好きな時に唄うべ、という感じ。でも、こったら唄どうでもいいべ、という感じ。
でもすごかったみたいだね。
八重山の田園を歩くと、そこここから、唄が聴こえて来たという。仕事をしながら唄ってるわけだ。女性の声がすごかったと言うね。本当に響く。超音波光線みたいに遠達性のある声というか。なるほど、唄の島、詩の島 と言われるわけだ。
このことに価値を見いだしたのが、喜舎場永珣先生というわけだ。
彼は、その当時、現地調査をして、八重山民謡の生い立ちを古老から聴いて歩いたのである。そんなことをしたのは、彼しかいなかった。だから八重山民謡の解釈は彼のものしかないと思う。
それに対して、若干の自分の意見をいれたものが今、あちこちででまわっているわけだが、根元は皆、同じなんじゃないかな。喜舎場永珣先生である。
このような人が一人でも居て、その人が真摯に取り組み、それを応援する姿勢が社会に少しでもあれば、文化は存続していくものなのかもしれないな。少なくても、アメリカさんの場合は、一応言論の自由を建前としているし、喜舎場永珣先生の活動が、反社会的なものとは見なされていなかった。
それで十分だ。
八重山の唄は立派に存続したと言えるし、その力は日本全土に拡がっている。
ひとつ残念なのは、作業の機械化が進み、昔のように八重山郡下に木霊のように響き渡っていたと言われている唄声を我々が聴くことがもう出来ないことかな。でもこれは仕方がなかろう。
このような人が一人でも居て、その人が真摯に取り組み、それを応援する姿勢が社会に少しでもあれば、文化は存続していくものなのかもしれないな。少なくても、アメリカさんの場合は、一応言論の自由を建前としているし、喜舎場永珣先生の活動が、反社会的なものとは見なされていなかった。
それで十分だ。
八重山の唄は立派に存続したと言えるし、その力は日本全土に拡がっている。
ひとつ残念なのは、作業の機械化が進み、昔のように八重山郡下に木霊のように響き渡っていたと言われている唄声を我々が聴くことがもう出来ないことかな。でもこれは仕方がなかろう。
とんかつ
ブタ串
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