2014年5月3日土曜日
All Englishの愚 三線と関係ないが載せておいた
こんばんは
良い記事なので、乗せておきます
メールでしか来ないので、URLは載せられません。
まったく考えさせられる。
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『三橋貴明の「新」日本経済新聞』
2014/05/02
From 施 光恒(せ・てるひさ)@九州大学
おっはようございま~す(^_^)/
東田剛さんは、最近、替え歌にはまってますね~。毎回、楽しみです。
さきほど先日の東田さんのメルマガの「YMCA」ならぬ「USTR」の歌詞を、「YMCA」のyoutubeを聞きながら見ていたのですが、おかげでいま頭の中でずっと「フロマン! タフネゴシエ~ター、フロマン! ウォール街しゅーしん、フロマン!…」と替え歌が流れてしまって離れません…。こまったもんです。
えっと、気持ちを切り替えましょう。
最近、気になったニュースがこちらです。
「文科省、省内会議に英語導入「まず自分たちから」(『日経新聞 電子版』2014年4月30日付)
http://www.nikkei.com/article/DGXNASDG28049_Q4A430C1MM0000/
英語教育をめぐる議論を活発化させる目的で、文科省が省内の会議の一部を英語で行うことにしたというニュースです。省内の英語教育に関する企画立案にかかわる部門の会議の一部を英語で行うということです。
記事によると、文科省の幹部は、「職員自らが英語を活用することで、英語教育への視野が広がるはずだ」と期待しているそうです…。
このニュースを読んで、私は頭が痛くなりました。日本の教育行政をつかさどる中央官庁が、日本人だけなのにたどたどしい英語を使って、日本の英語教育の在り方について会議している姿は滑稽でしかないですね。
(´・ω・`)
いい大人は「英語ごっこ」なんぞしていないで、日本国民の将来にとって外国語教育がいかなる意味で必要なのか、国語教育とのバランスをどのように考えるべきなのかなどについて真剣に討議してもらいたいと思います。もちろん日本語で。
しかしアメリカ人は、日本の文科省で日本人同士が英語で会議しているのをみたらほくそ笑むでしょうね。「日本人も劣化したなあ、こんな国民には金輪際負けることはないなあ」と。
もし立場を入れ替えて、アメリカの役人たちがアメリカの教育省で自分たちだけなのにたどたどしい日本語で会議をしていたら、多くの日本人はそれを微笑ましさと憐れみを感じながら見つめ、「アメリカも劣化したよなあ」と思い、アメリカという国を軽く扱うようになるのではないでしょうか。
(´・ω・`)
文科省は、最近、ますます「教育のグローバル化」なるものに熱心です。
例えば、上記の日経電子版の記事の後半でも触れられているのですが(登録が必要なのでみられない方も多いかもしれません、すみません)、文科省が昨年12月に公表した「グローバル化に対応した英語教育改革実施計画」によると、小学5年生から英語を正式教科化し、週三時間それに充てるようになるそうです。
http://www.mext.go.jp/a_menu/kokusai/gaikokugo/1343704.htm
また「モジュール授業」なるものも導入し、英語の授業のない日も、15分程度、英語の「聞き取り」や「発音」などの反復練習に充てる時間を取りたいと考えているようです。
日本語もまだ不確かな小学生にそんなことする必要あるんでしょうかね。英語圏で将来働きたいという希望を持っている子が大多数だというわけでもないでしょうし。
ちょっと意地悪な言い方をするとすれば、文科省は、日本が将来、アメリカの正式な属国になると予想しているのかもしれません…。
中学に目を移すと、中学校の英語の授業は、原則英語で行うことにするようです。高校では昨年度の一年生から始まっていますが、「英語の授業は全部英語でやるべきだ!」といういわゆる「オール・イングリッシュ」という取り組みです。数年後には、それを中学校レベルでも導入しようというのです。
基本的に、英語の時間は日本語禁止で、文法の説明も英語で行い、訳読はしないというのでしょう。ただ、高校の英語の先生に尋ねたところ、現場はやはりそういうわけにはいかず、文法や単語の説明は日本語でするし、和訳も当然しているとのことでした。
ですが、文科省が「英語の時間は英語でやるのが基本」だと強く打ち出していますので、数年後には、英語の時間に日本語を用いる中学や高校の先生がたは、うしろめたさを感じるようになるのではないでしょうか。
不思議なことに、英語教育の専門家には、中学校や高校における「オール・イングリッシュ」の英語の授業を推奨する人は少ないようです。また、英語教育学の研究者のなかでは、「英語は英語のみで教えるべきだ」という説は、学術的に正しくないという意見がかなり強いようです。
たとえば、イギリスの応用言語学の大家ガイ・クック氏は、「オール・イングリッシュ」のように児童・生徒が日常使っている言語を教室から排除する教授法のことを「直接教授法」と呼び、これを批判しています(クック/斉藤兆史、北和丈訳『英語教育と「訳」の効用』研究社、2012年)。
クック氏は、「英語は英語で教えられなければならない」とか「ネイティヴ・スピーカーこそが最良の英語教師である」というような一連の「直接教授法」の考え方には、学術的根拠はあまりなく、それが広まったのは、むしろ「商業上の理由」からではないかと述べています。
つまり、つまり「英語は英語で」とか「ネイティブの先生こそ最良の教師だ」という見方が広まれば、イギリスやアメリカなどの英語国の出版社や学校は、相手国の言語や文化に関係なく、自国の教師や教材を一律に輸出できるので都合がいい。そういうビジネス上の都合から、直接教授法が正しいものとして世界に広まっていっただけなのではないか、と推測しています。
同じように、言語教育の専門家ロバート・フィリプソン氏も、世界の英語教育業界において、誤っているのに広く受け入れられてしまっている5つの誤謬を列挙しています(フィリプソン/平田雅博ほか訳『言語帝国主義──英語支配と英語教育』三元社、2013年(原初は1992年に出版))。
興味深いので5つとも書いておきます。
(1)単一言語使用の誤謬、つまり「英語は英語で教えるのが最もよい」という信条
(2)母語話者の誤謬、つまり「理想的な英語教師は母語話者である」という信条
(3)早期教育の誤謬、つまり「英語学習の開始は早いにこしたことはない」という信条
(4)最大受容の誤謬、つまり「英語に接する時間は長いにこしたことはない」という信条
(5)減算的言語観の誤謬、つまり「英語以外の言語の使用は英語の水準を低下させる」という信条
フィリプソン氏は、多くの論拠を挙げながら、これら5つの信条がいずれも誤りで、学術的根拠はあまりないのではないかと論じています。
たとえば、(1)に関しては、児童・生徒がすでに身に付けている言語の土台があり、それに十分関連付けられて初めて外国語の学習が進むのであり、そうした関係を軽視してはならないという点に言及しています。
(2)については、たとえば、学習者と言語や文化を共有し、また自らが第二言語として英語を学習してきた経験を持つ非母語話者のほうが、学習者の言語的および文化的ニーズをよく理解しているため、単なる母語話者よりも教師としてふさわしいとする研究を示しています。そして「理想的な英語教師を母語話者とすぐに結びつける発想自体が拙速である。この信条は科学的妥当性をもたない」と論じるのです。
フィリプソン氏も、「単一言語使用の誤謬」や「母語話者の誤謬」が学術的裏付けが乏しいにもかかわらず広まった原因について、これらが広まることによるアメリカやイギリスなど英語国やそこの各種業者の政治経済上のうま味について指摘しています。アメリカ人やイギリス人の英語教師は、相手国の言語や文化を知らなくても、英語教育関連の世界中の職場で職を得られるようになるわけですし、アメリカやイギリスの出版業者は相手国の言語・文化にかかわらず世界中に教材を売ることができるようになりますので。
フィリプソン氏は、「単一言語使用の誤謬」がもたらす学習者への心理的な悪影響についても強調します。学習者の言語を教室から締め出すことは、学習者の言語や文化が劣ったものだと意識させることにつながらないかと懸念するのです。
フィリプソン氏によれば、ドイツの言語や文化の広報機関であるゲーテ・インスティテュート(ドイツ文化センター)の付属のドイツ語学校も、かつては単一言語使用の方法論に従っていたそうです。
しかし、ゲーテ・インスティテュートは80年代にこの方針を改めました。「学習者の母語を教室から締め出すような教育は、彼らに疎外感をもたらし、彼らから文化的アイデンティティを奪い取り、異文化間コミュニケーションの能力の向上ではなく文化変容を引き起こす」と指摘されたからだそうです。
フィリプソン氏は、この点について、「確固たる文化的アイデンティティを身に付けていると考えられる成人の学習者に対する外国語としてのドイツ語教育にすら、こうした異論があるというのであれば、感受性の強い子供たちに一言語のみを用いて行う教育が壊滅的な結果をもたらしうることは想像に難くない」と論じています。
私も、中学校や高校での「オール・イングリッシュ」の方針は、「百害あって一利なし」に近いんじゃないかと思います。
中学、高校の英語の時間は、せいぜい週5時間程度でしょう。一年35週、一時間の授業が50分だとすると、英語の時間は、一年365日中、丸6日程度しかありません。学校教育の外国語学習など、時間的にみれば、たかが知れています。
丸6日程度のうち、英語の音に触れたり、英会話の練習をしたりする時間が授業内で少し増えたところで、たいして英会話がうまくなったりするものでもないでしょう。
それよりも、「オール・イングリッシュだから日本語禁止!」とか、「小学校から英語を学ばせなければ!」とか、「スーパーグローバル人材だ!」とか、「会議は英語でやるお!」とか、グローバル、グローバル、英語、英語と大人たちが叫んでいることの子どもに与える悪影響の方が心配になります。
このような状況は、子どもたちに、「英語や英語文化のほうが、日本語や日本文化よりも圧倒的にえらい」という見方をはからずも刷り込こんでいるのではないでしょうか。
以前のメルマガ記事でも書きましたが、日本の文教政策の短期的な目標の一つとして「英語力向上」というのがあってもいいとは思いますが、それが日本の教育政策の柱となってしまうのはまずいでしょう。
いくら日本人の英語力が向上したといっても、アメリカ人やイギリス人の英語力には適うわけありませんし、おそらく日常生活で英語を必要とするシンガポール人やインド人、フィリピン人にも勝てないでしょうから。
ですので、日本の政策目標としては、「たとえ英語ができなくても、豊かになれ、多様な機会が得られる国づくりを維持し徹底する」のほうがずっと望ましいでしょう。(また「英語による文化支配が事実上行われている世界の現状を長期的には是正し、公正化をはかる」という国際戦略も必須でしょう)。
文科省は、東京オリンピックが開かれる2020年をめどに英語力向上!と叫んでいますが、片言で英会話できる日本人が少々増えたところで別に外国の人はよろこばんでしょう。
それよりも、「日本人は英語がかなり下手だけど、街は豊かさにあふれ、清潔で、安全だ! そして人々は親切だ!『英語化=近代化』などではなかった」という当たり前の事実を外国の人々に認識して帰ってもらった方が今後の世界のためにずっといいように思います。
いつにもまして長々と失礼しますた…
<(_ _)>
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